2008年3月5日水曜日

夢十夜に寄せて

 今日は文章作成に追われて、三度しか部屋を出なかった。一度目は新聞を取るため、二度目は天気を確かめるため、三度目は小腹を満たすためにコンビニへ行くために、全部で三度ドアを開けた。
 部屋にこもっていたので、人に会わない日になった。今日聞いた人の声は、バラエティー番組のお笑いの笑い声と、コンビニの店員の「いらっしゃいませ・480円になります・おつり20円になります・ありがとうございました」4フレーズだけである。人に会わないと、人の声が恋しくなる。文章に追われて人に会う時間を作らなかったのだ。仕方がないので、自分の声を聞いて紛らわせることにした。
 夏目漱石の書いた「夢十夜」を手に取り、第二夜を朗読した。「無」を悟れず、坊主に馬鹿にされる侍の話だ。侍のあせる気持ちと、文章の仕上がらない自分の気持とがリンクして、妙に感情移入して読んだ。聞くのも自分、朗読するのも自分、すべて自分だけの閉じた世界である。だが、自分以外に話し相手がいないのだからしょうがない。話さないよりましである。
 ある高校の先生が、「インプットとアウトプットのバランスをとることが重要」であると言っていた。教師である彼女は、授業でアウトプットをたくさん求められる立場なので、演劇を鑑賞したりやライブに行ったりすることでインプットを補充しているのだという。今日の夢十夜の一人朗読も、インプットアウトプットのバランスをとるための行動なのだろうと思った。
 表現活動におけるインプットアウトプットの関係は、血液の動脈精脈の関係、呼吸の関係など、体内の循環システムに似ている。お金の流れもそうだ。金銭はためるのではなく、動かすことで価値がでるという。滞っていてはいけない。ぐるぐる廻らすことが大事なのだ。
 表現も同じだ。インプットだけではいけない。アウトプットしなければ、バランスが崩れる。世に言うブロガーは、アウトプットが足りないために、日々せっせと文章をこしらえているんじゃないかと私は思っている。かくいう私は、今日のアウトプットが足りずにせっせとひきこもり日記を開帳している。
 余談だが、ブログの表題である「旅枕」は、漱石の夢十夜から連想したものである。一人朗読も、発想の種にはなったので、無駄ではないようだ。

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